ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ

2014.8.15

今日は8月15日、日本の終戦記念日。

69年前のこの日、その約1週間前には長崎、更にその三日前には広島に原爆が投下され多くの人が犠牲になりました。

8月に入ってから、終戦記念日までの約2週間は一年の中でもっとも「戦争」について考えさせられる時期です。今年も、先の大戦で犠牲になった人々のことを思い、先の大戦によりその後苦悩に満ちた人生を歩まざるを得なかった人々について考えました。

そして今年は、長らく部屋の奥のほうに閉まっていた本を取り出し、読んでみました。

「ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ」という本です。タイトル通り、ヨシアキは第二次世界大戦によって生まれ、戦争によりベトナムで亡くなりました・・・この本、すべて実話です。

本の感想は後ほど書きますが、ザッと本のあらすじを書くと・・・

第二次世界大戦の終戦直後、日本人女性ツギエ(次恵)はアメリカ兵の暴行によりできた子供(ヨシアキ)を産みます。しかし貧しさから自分では育てられずヨシアキが4歳の時に当時「あいの子のための家」だったエリザベス・サンダースホームに預けます。後にも触れますがその後、ヨシアキは「母親に捨てられた」という記憶を消し去ることはできませんでした。

本は、そのタイトルからして「若くして死んでしまうのだな」と分かるタイトルなので、読む前はかなり気が重かったのですが、本自体は「お涙頂戴」ではなく、取材によって得た情報を元に事実が淡々と書かれています。

ヨシアキはその短い人生の中でたくさんの良い出会いに恵まれました。実の母親に捨てられたものの、エリザベス・サンダースホームでは同ホームの設立者であり「みんなのお母さん」でもあった澤田先生にかわいがられ、友達も沢山でき、11歳にアメリカの養子先の家に渡ってからも親(新しい親)や友人に恵まれました。アメリカでの養子先の両親ロンとルイスは、ちょっと天然ボケでノー天気だけれど、彼のことを大変可愛っていました。養子先の両親は彼に「スティーブ」というアメリカ名をつけました。アメリカに着いてすぐ、スティーブ(ヨシアキ)には一生の親友「ダニー」もできました。

思春期の頃にはフットボールの花形プレイヤーとして地元で有名になり、女の子にも人気があり、スティーブ(ヨシアキ)はアメリカで順風満帆の生活を手に入れたかのように見えました。

しかしヨシアキは高校を卒業すると、自らの希望で米軍に入ります。そして派遣されたベトナムで命を落としました。

・・・・この流れだけを聞くと、「なぜ、わざわざベトナム戦争中にアメリカの軍隊に入ったのか??」と疑問を持つ人も多いかと思いますが、本を読んでいく中で、私なりに答えが見えてきた気がします。

ヨシアキはその境遇から、日本でもアメリカでも差別を受け続けてきた存在だったこと。

エリザベス・サンダースホームのあった日本・神奈川県大磯では、「混血児を海に入れるな!」という地元の人からの抗議がありました。たまに遠足などの際に施設(エリザベス・サンダーズホーム)の外に出れば、アメリカ兵の落とし子だと一目で分かる子供達に周りの人達が優しいはずもなく、「パンパンの子」、「売春婦の子」、「GIベイビー」、「あいのこ」などと散々でした。

11歳でアメリカに渡り、アメリカ人の家庭の養子になって以降は、得意のフットボールで花形プレイヤーになるなど、それなりに自分の居場所を確保できたかのように見えたヨシアキでしたが、実はアメリカでも、キリスト教系学校の校長に、白人ではないという理由で入学を断られたり、初恋の相手で初めての恋人であるアメリカ人女性の父親に以下のように言われました。

「娘の未来に君はふさわしくない。それが結論だ。なぜふさわしく無いのだと、君は問い返したいだろう。しかし、私はそれを口に出して言うつもりはない。帰りたまえ。もう言うことはない。」

そんな出来事の数々から、ヨシアキにとっては、「アメリカ人にアメリカ人として認めてもらうこと」イコール戦争に行ってアメリカのために戦うことだったのではないか。彼が見出そうとした「アメリカ人として存在を認めてもらう唯一の方法」が軍隊だったのかもしれない、と本を読んでいて思いました。何しろヨシアキは「軍隊」というものが非常に近い環境にいました。養子先のアメリカ人家庭にも軍隊経験者が多くいたのですから。

ヨシアキが軍隊に入ったのは「自分の居場所探し」の結果だったのです。そして居場所探しの途中で命を落としました。

ヨシアキが軍隊に入ったもう一つの理由に、「軍に入隊後の6ヶ月目にとれるR&R(リラックス&レクリエーション)」という休暇がありました。R&Rはその名の通り、兵士がリラックスをするための一週間程度の休暇のことですが、軍のはからいにより自分の好きな国へ行けるのです。ヨシアキは、このR&Rの行き先を「日本」と決めていました。自分を育ててくれたエリザベス・サンダーズホームの澤田先生に、自分の実の生みの母親の事を聞きにいこうとしていたのです。

しかしヨシアキの日本行きは叶いませんでした。日本行きが叶う前にヨシアキはベトナムでスナイパーからの攻撃を受けて死んでしまいました。

上にヨシアキはR&Rを通して日本に行こうとした、と書きましたが、今の時代にこの話を読むと、「何も軍隊に入らなくても、日本へ行く方法なんていくらでもあったのではないか」と一瞬思ってしまいます。

でも時代は60年代。今のように飛行機のチケットが簡単に買える時代ではありません。日本に行くには莫大な費用がかかりました。そんな時代に、比較的簡単に海外(日本)に行ける仕事といえば、それは軍隊だったのです。

またヨシアキには、自分のことを養子にしてくれたアメリカ人の家族への遠慮もあったように思います。新しい家族は、あんなによくしてくれたのだから、たやすく「僕は生みの母親に会いに日本に行きたい」とは言えなかったに違いありません。でもヨシアキが軍に入って「一週間の休暇R&Rを日本で過ごすことした」と言えば、軍経験のあるアメリカの家族にも比較的簡単に納得してもらえる・・・そう考えたに違いありません。懐かしの日本に行くための唯一の方法が軍隊だったのです。

アメリカの家族は「軍隊に入った後、六ヶ月はなんとしても生き延びろ。そうすればお前は生きて帰れる。」とヨシアキに言ったのだそう。この「最初の六ヶ月を生き延びれば生きて帰れる」というのは当時のアメリカ陸軍のジンクスだったそうです。

そういう話ひとつをとってもこの本は、単に「ヨシアキのような、かわいそうな子が昔いた」という話ではなく、当時の日本、当時のアメリカの社会がよく見えてくる本です。

そしてやはり思うのは、二度と戦争をしてはいけないということ。戦争は、言葉は悪いですがその場で戦死しなくても、本来ならば罪に問われるはずのレイプが蔓延したり、それによって生まれた子供が死ぬまで悲しみを抱えたまま生きていかなければいけない(ヨシアキのケース)などなど・・・一世代に留まらず次の世代にも悲しみを背負わせてしまいます。

この本「ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ」、「ハーフ」に興味のある人、歴史に興味のある人、とくに1940年代から1960年代にかけてのアメリカと日本に興味のある人はぜひ読んでみてください。お涙頂戴ではない何かが見えてくる本です。

 サンドラ・ヘフェリン

コメント

  • 読んでみます。エリザベス・サンダースホームのことは、私もいろいろと本を読んだり、自分の活動の中で知り、このヨシアキさんのこともどこかに出てきたかもしれません。ただ、この本は知りませんでした。自分の居場所探しと戦争、たいへん重いテーマで、簡単に読めるか自信はありませんが、読まずにいられないと思いました。普段から戦争反対だけど、終戦記念日になると私もとくにいろいろ考えます。私の身内には戦争に行った人が何人かいて、母方の祖父は民間人でしたが赤紙召集で戦闘中になくなり、父方の伯父は将校だったためか、前線でも生き延びて、戦後はそれなりに活躍しました。同世代なのにあまりにも対照的な2人の人生をいつも終戦記念日に思い出します。他にも戦争でいろいろ人生の変わった人を知っていて、辛い気持ちになります。自分が日本、韓国、アメリカに住んだので、国による戦争の捉え方も違うのを見ましたし、日本でも長崎に身内がいるので、原爆忌は戦争の罪を深く考えさせられます。良い本の紹介ありがとう。

    11:59 AM N☆
    • N☆さん、
       
      この時期、いろいろ考えますよね。
       
      戦争は誰にとっても不幸をもたらすけど、とくに庶民に不幸をもたらしますよね。どこの国でも戦争の「企画者」は戦争を無傷で生き延びることが少なくないですし。
       
      そしてN☆さんが書いていた
       
      >自分が日本、韓国、アメリカに住んだので、国による戦争の捉え方も違うのを見ましたし、日本でも長崎に身内がいるので、原爆忌は戦争の罪を深く考えさせられます。
       
      ↑について。多くの人が色んな場所に住めばそれぞれの見解がわかり人間として成長できるのではないかと思います。住むのがむずかしければその国の人と交流するとかね。★サンドラ★

      12:27 PM サンドラ・ヘフェリン
  • 重いけど、当時のミックスの男性を通して、戦争は何も生み出さないことを思い知らされそうな本ですね。まだ読んでいませんが。そして、当時、ミックスで生きると言うことは、文字通り、どちらの国にも属せないということだったんだな、と思います。読んでみようと思います。

    8:39 AM Jannat
    • Jannatさん、

       
      コメントありがとうございます。
       
      そう、ハーフは、特に戦争をした国同士のハーフの場合だと、「どちらの国にも属せない」という悲劇があります。世代によっては無国籍になってしまった人もいますしね。

       
      ヨシアキのような、当時米兵と日本人女性の間に生まれた人にとっては、その上に両親の問題も出てきますね。「実の両親」に会いたいと思う反面、実の両親が社会から見たら軽蔑されている存在だという悩みです。世間から見たら、「父親はレイプ犯」「母親は米兵を相手していた、ふしだらな女」ということになってしまいますからね。そういう実親を持つ子供の気持ちは、社会的なステータスをもった両親の元(父親は銀行取締役、母親も名家の出身、など)に生まれた人には中々理解しがたいのだと想像します。そこにも大きな悲しみがあるのですね。

       
      Jannatさんが書いていた

       
      >戦争は何も生み出さない

       
      というの、おっしゃる通りですね。戦争によってもたらされた個人個人の苦悩を理解する必要はあるけど、戦争自体を美化することには反対ですね。★サンドラ★

      10:52 AM サンドラ・ヘフェリン
  •  そう、ほんの1世代前か、そこらまでは、「ハーフ」だの「ミックス」などと言わずに、「あいのこ」と言っていたのです。 明らかに、差別用語でした。 でも、誰もがそう呼んでいました。 そのころ、「外人」(外国人ではない)とはアメリカ人を指していました。 そして、「あいのこ」とは、駐留米軍兵士と日本人女性のあいだにできた子どものことでした。 しかも、多くの女性は売春婦だったのでしょう。
     ずいぶん前のことですが、アメリカの田舎町で偶然、日本人女性に会いました。 彼女はアメリカ生まれの2世のふりをして、ずっと英語で会話していました。 会って1日以上たって、きっとウソをついているのが嫌になったのでしょう。 やっと日本語でしゃべりだし、日本でアメリカ兵と一緒になった身の上話を打ち明けてくれました。 ボクに偏見がないようなので話したと言っていました。 自分自身、本当に偏見がないか、よくわかりませんが。
     今の時代は多少は良くなっているのでしょうか。 右翼やヘイトスピーチをする狂信者を見ていると、根っこの部分は同じみたいな気がするのですが。

    10:35 AM mustafa
    • mustafaさん、

       
      コメントありがとうございます~。私も小学生のころ(80年代)に同級生に「あいのこ」と言われたことあります(笑)「サンドラちゃんって、あいのこだよね。」みたいに。今考えると、親はその世代でしたから、きっと親が家で使ってたんでしょうね。「サンドラちゃんは、ドイツと日本の「あいのこ」なのよ」みたいに。なんだかなあ、、、です。

       
      さて、mustafaさんが書いていた売春婦のこと。女性としては複雑な気持ちです。おっしゃるとおり戦後の日本で米兵相手に「売春」をしていた日本人女性がいたわけですが、豊かで平和な国や時代であっても売春をする女性はいますが、「平和で物質的に豊かな時代であれば、絶対に売春をしなかったのに、戦後で貧しかったから売春をせざるを得なかった」女性も沢山いるのだと想像します。もしかしたら男性は「女性の売春は、いかなる事情があっても、ダメ」というふうに考える人が多いのかもしれませんが、それは少々理想主義のような気もしますね。

       
      それからアメリカの田舎町での話、書いて下さってありがとうございます。興味深いです。

       
      それから

       
      >今の時代は多少は良くなっているのでしょうか。 右翼やヘイトスピーチをする狂信者を見ていると、根っこの部分は同じみたいな気がするのですが。

       
      ↑まあ、根っこの部分は一緒ですよね。「ココはニッポンなんだから、お前ら出て行け」みたいなスタンス。あまりに視野が狭くて悲しくなりますね★サンドラ★

      10:52 AM サンドラ・ヘフェリン
  • この本、聞いたことはありますが、読んだことはありません。
    時代は違えど、日米ハーフとしての私は複雑な思いです。
    もし私がこの時代のハーフに生まれたら、今以上にひどい偏見に晒されるだろうな、というのは容易に想像がつきます。
    また、ハーフの容姿も当時にしては珍しかった(今でもそうだが…)時代では、やはりハーフはジロジロ見られていたのでしょう。今現在でも、こういう状況は変わったのか、と問いたいが。
    ハーフとは関係がないかもしれませんが、「ジロジロ見ないで 普通の顔を喪った9人の物語」というのも、こういう状況に似たことが多く書かれています。これには生粋の日本人しか出てきませんが、底にあるのは同じマイノリティとしての大変な苦労なので。。。

    3:53 PM Maria
  • 私は戦後 昭和31年にブラジルに移住しましたが、住んでいたのはサンパウロ市内でした。戦後の米兵相手に出来た子供たちが日本んで差別を受けたので、人種差別が少ないブラジルのアマゾンの植民地でコロニアを
    作る為 澤田さんの「エリザベス・サンダースホーム」から送り込んできたと現地で聞きましたが、4,5年したらコロニアに入った方々がサンパウロ市内の日本人、日系人が経営している飲み屋、バール等に働いていました。アマゾンの農業に我慢できなかったと聴きました。顔色は黒人系のハーフが日本語を上手に喋るのに最初は驚きました。

    4:11 PM 小野田 紀夫

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です