「同じ日本人として誇りに思う」「同じドイツ人として誇りに思う」

2013.10.29

たとえば、日本人がノーベル化学賞を受賞したとき。

それはとてもおめでたいこと。そして国の発展にとっても喜ばしいこと。

でもでも「誰々さんがノーベル賞を取ったのは同じ日本人としてとても誇りに思う」と人々が言うのを聞いて、不思議に思ったことはありませんか。

私は、いつも不思議でたまらないです。

「誰々さんがノーベル化学賞を取ったことを、日本人としてとても誇りに思う」という感じ方やとらえ方。

ん?でもノーベル賞をとったのって、あなたじゃないんだよ?違う人なんだよ?それを「国が同じ」という共通点だけで「誇り」に思っちゃうの?なんて私は思っちゃいます。(同じ分野の研究をしている人が、その人を応援したり誇りに思うのは分かるけど。)

日本人の誰々さんが宇宙に行きました!それで、「誰々さんが宇宙に行ったのを、同じ日本人として誇りに思う」っていうのも、なんだかなー。

自分が宇宙に行ったのですか!と言いたい。

念のためにいうと、これは日本だけの話ではなく、どの国にも言えることだと思います。

基本的に私は、自分が成し遂げた事ではないものを、「同じ国だから」という理由のみで「誇りに思う」感覚・・・・わからないんだよなあ。

ちなみに私はドイツで育ち、ドイツ人でもあるわけですが、

ドイツのソーセージがおいしいことに「誇り」を持ったことはございません(笑)だって、ソーセージはおいしくいただきますが、私が発明したわけではないですからね、ソーセージ。

まあ、ソーセージに関しては誇りには思いませんが、限りなく「好き」なのは確かだけれど。

ところで、「ドイツ」と聞くと、皆さん(特にご年配の日本人の方)優しいので、かならず「ドイツの自動車」や「時計等のドイツの機械」「ドイツのクラッシック音楽」「ドイツのお城」「ドイツの強いサッカー」を褒めてくださいます。あまりに褒められるので、ちょっと私自身は申し訳ない気持ちになったりします。理由は、「自分は上記の分野のどれも得意ではないから」。なので、これらの事を「同じドイツ人として誇りに思う」ことはないのですね。

確かに、ドイツの自動車産業は凄いのかもしれませんが、私が「ドイツ人としてドイツの車が有能である事を誇りに思う」のはおかしいと感じるのです。理由は簡単!私自身が作った車ではないから。それで、私自身、車は所有していませんし、それどころか運転免許も持っていないのですから(恥)、話になりませんね(笑)なので、私のような人が「自分はドイツ人なので、ドイツの車産業がすごいのを誇りに思う」とか言うとしたら、かなりアホだと思います。

時計や機械に関しても、自慢ではないですが、私、極度の「メカ音痴」でして・・・。複雑な機械どころか基本的なパソコン操作が分からず、人の助けを借りず人並みにパソコンが使えるようになったのは20代も半ばを過ぎた頃だと記憶しております(呆)

ドイツの誇れる(?)文化「クラシック」に関しても私、何せ素人ですので、解説できるものは何もありません。ですので、「バッハやベートーベンと同じ国(ドイツ)出身なのでドイツ人として誇りに思う」こともないわけです。あたりまえですね。

そしてそして、ドイツのサッカー。ドイツのサッカーは強いらしいですが、私は(女だから、ということも関係しているかと思いますが)子供の頃も今もサッカーをプレー(?)した事はありません。サッカーのルールは野球よりも素人に分かりやすいため、テレビなどを見て、あ!ボールがゴールに入ったら皆歓声を上げるんだな、と学習した程度です。しかし私、見ているだけでも動きが早くてついていけず、Eigentor(英訳:オウン・ゴール、和訳:自殺点)にもかかわらず勝手に「わーい入った^^」と喜んでいたりするので、恥ずかしくて人前では怖くて応援できないです。

・・・こんな事を書いた後に、これを書くと、負け惜しみに聞こえる事を承知で書くと・・・そもそもサッカーの応援って好きではないのですね。F1同様、「女が観客席から活躍する男を応援する構図」がどうも気に入らないのです。ま、この点は措いておくとして。言いたいのは、とにもかくも、私はサッカーボールを蹴った事も、サッカーを応援した経験もあまりなく、そしてサッカー好きな男性とのデートも長続きしません(笑)私、サッカーがらみの話題の「聞き役」にさえも向いていないようなのです(苦笑)なので、そんな私が「ドイツってサッカー強いのよ!スゴイでしょ!」って言うとしたら・・・・滑稽にもほどがあります。

そして、最後になりました。ドイツのお城!「ドイツの綺麗なお城を、ドイツ人として誇りに思う」・・・・ないないないですね~。たしかに綺麗だと思うし、綺麗な建物や綺麗な景色は大好きです。でも、あれ、私が設計したお城ではないんですよ(あたりまえ)。そして残念ながら、私はお城を所有した事もありませんし、これもまた残念ながらドイツのお城や建物の建築にも詳しくありません。

ですので、なにをとっても「ドイツの代表的なもの」に私が便乗して「ドイツ人として誇りに思う」ことはないのですね。

しつこいようですが、世の中には不思議な人がいまして、自分がノーベル化学賞をとっていないのに「同じ国の人がノーベル化学賞を取った」と、なぜか自分が誇りに思ったり、自分がサッカーでゴールを入れていないのに、テレビの前でゴールした気になって、“Tooooooor!”(和訳:ゴール)と叫んでいたりする人がいます。ま、これに関しては、愛国心や「何々人として誇りに思う」以前の問題で、ダイエット的な面から見ても大問題で、このエピソードはよくドイツの新聞の風刺画にも出てきます(笑)テレビでサッカーを見ながら運動した気になっているオッサンの風刺画ですね(笑)

個人的には、自分の国の政府だとか、自分の国の企業や才能のある人達、または自分の父親だとかが成し遂げたことを「自分が誇り」に思うなんてできません。

逆に言うと、例えば「自分の国が経済的にあまり恵まれていない」とか、「自分の国の治安が悪い」とか、「自分の国の人が日本で犯罪をしていて目立っている」場合も、「自分がそれを『同じ何々人』として恥じる」必要は全くないと私は思います。

例えば、日本に住んでいる■■という国の人、または■■の国のハーフの人達。運悪く、自分と同じ■■国の出身の人が日本で犯罪を起こしても、自分は全く恥じる必要はないのです。■■人として恥ずかしい、という言い方もよく聞きますが、まったくもっておかしい。自分が起こした犯罪ではないのですから。

そうはいっても、日本で、特定の国の人の犯罪が増えた場合、犯罪の原因について考えてみる事は有意義な事だと思います。でもそれは決まった国の人達だけが考えるのではなく、「全員」で考えていかなければいけない事だと思います。犯罪の背景には貧困や、貧困に由来する家庭問題があったりするので、格差社会が問題になっている今、それこそ「全員」で考えていかなくてはいけない問題だと言えるでしょう。

「よくも悪くも」、自分の国の良いことに便乗をして自分もスゴイんだと錯覚をし『同じ何々人』として誇りに思ったり、逆に運悪く、自分の国の人が日本で犯罪をした場合、それを『同じ国出身だから』という理由だけで自分を恥じる理由はゼロだと私は思います。もちろん、謝る必要もありません。

基本は、「自分」だと思うのです。

自分が誇りに思えるのは「自分が成し遂げた事」。

恥じるのも「自分が起こした行為」。

これに尽きると思います。

恥ずかしく思ったり、申し訳ないと思うのは「自分がやったこと」に関して「のみ」で良いと思います。この「のみ」というところを強調したいですね。

もちろん「自分で成し遂げた事」と言っても、その過程で、多くの人にお世話になったり、恵まれた子供時代を過ごしたり、「自分ひとりだけの力で何かを成し遂げた」ということではない部分も多くあることでしょう。

でもそれを自覚しつつも、自分とは関係ない事を恥じたり誇りに思ったり、変に忙しくする必要なないな、とも思うのです。

さて、クドクドと長くなってしまいましたが、まとめると、2020年の東京オリンピックは私も応援はしますが、「あの選手、足が速い。速くてすごい!●●人の誇りだ!」なんてホザいているヒマがあったら、自ら(サンドラ)が近所のジムで30分走る事から始めたほうがよさそうです。自分が30分走ったら、その時こそ、運動オンチの私としてはそれを「誇りに思う」ことができそうです(笑)

                    サンドラ・ヘフェリン

追記1)

まあ、そう言いつつも、私も、滝川クリステルさんが知的でハーフとしてスゴイと思ったり、オーストリアハーフであるトリンドル玲奈がかわいい!と感じたりはするわけですが、そこはスグ「待った!私、滝川クリステルじゃないじゃん!トリンドルじゃないじゃんw」と自分にツッコミを入れるようにしております。

追記2)

ハーフの方で、ハーフと交流したい方、意見交換がしたい方、以下のコミュニティーにぜひご参加下さい。

ハーフ交流コミュ二ティ

追記3)

私&ヒラマツオさんのハーフの漫画「ニッポン在住ハーフな私の切実で笑える100のモンダイ」ぜひ読んでみてくださいね^^

コメント

  • あ~、バングラデシュでもある話です、これ。今のバングラデシュは経済成長中の国ですが、ちょっと前までは「バングラデシュってどこ!?」「あ、あの貧しい国ね」なんていわれていました。それがムハンマド・ユヌス氏がノーベル平和賞を取った途端、「同じバングラデシュ人として誇りに思う」的な発言が出まくり、同時に過去の離婚暦まで暴露されちゃっていました。彼はノーベル賞を取るずっと前から貧困層の融資に力を入れていましたし、賞はあくまで社会が認めたという証なだけですけどね。
    最近だと、インド系アメリカ人、ニーナ・ダヴルーリさんがミス・アメリカに選ばれました。私は「印僑の人達の存在意義が認められたし、福祉活動にも力を入れていて、とても頭のいい女性だし、よかったのではないか」と単純に思っていました。しかし、その時にツイッターなどで「アラブ人のくせに!」「アメリカ人じゃないのにミス・アメリカになった!」「ミス・アメリカに相応しいのはブロンドで白人のミス・カンザスだ!」などのヘイト・メッセージがあふれまくり、これが多人種国家のアメリカ人の本音なのか、と辟易しました。同時に、うちも私以外はみんなインド系なので「インド系としてうれしい」とは到底思えず、娘が大きくなったらこういう差別に直面するのかな~、と心配になりました。
    こういったニュースって同じ国の人、または人種の人、とくくりがちですが、やっぱり自分と他人は分けなくてはいけないといつも思うし、人種や国で差別をしてはいけないと思うのは、その時点で目の前にいる人を全て否定することになるし、しいては自分も成長できなくなると思うからです。

    1:23 PM Jannat
    • Jannatさん
       
      バングラデッシュの例を書いてくださってありがとうございます。わかりやすく書いてくださって感謝です。
       
      たとえばオリンピックの例を挙げれば、どの国でも「貧しさから這い上がって明るい兆しが見えたちょうどその時」のオリンピックには非常にポジティブな効果があると思うのですね。経済面もそうですが、メンタルな面においても、オリンピックはその国に「明るい兆しが見えてきた」ことの象徴でもありますからね。
       
      またオリンピックの話ですが、街にプールがない国や時代で育った人からすれば、オリンピックでプールで泳いでいる人を見ることが、もしかしたらひとつの希望になるのだと想像します。しかし、日本とかドイツのような、近所にすぐプールやスポーツジムがあるような環境では、「足が早い人をテレビで見て応援する」「泳ぎが速い人をテレビで見て応援する」というのもいいのだけれど、とりあえず近所のプールやジムに行って、自らが動くのがまず先かな、と思うのです。・・・ま、偉そうなこと書いてしまいましたが、私も(思ったほど)行けてないんですけどね、24時間オープンのジムに(笑)。
       
      Jannatさんが書いていた「ミスコン」の話・・・ミスコンの発想もオリンピックと似ていますよね。「美しい女性、●●国代表」みたいな。「●●の国の女性が『美しさ』で今年は勝ちました」ってね。ミスコンに勝ったそのインド系アメリカ人女性への中傷に関しては、ニュースで読みました。酷い話ですね。ミスコン開催もいいけど、こういうヘイトスピーチやヘイトクライム寸前のような風潮をなんとかするほうが先&大事だと思いますけどね。またお話しましょう~★サンドラ★

      5:02 PM サンドラ・ヘフェリン
  • 自分は日本とアメリカのミックスでサッカー観戦が好きですが、一番好きなチームはスペインです。理由はゴールキーパーが好きだからです。前回のワールドカップの時はスペインを一番応援していて、周りから『なぜ日本を応援しないのか』とよく言われました。確かに日本のチームも好きだけど、優勝してほしかったのはスペインでした。自分の国だからといって自分の国のチームを応援しなければいけないわけじゃないですよね!

    2:16 PM Miki
  • 偉業に対して賞賛はするけれど、確かに「日本人として…」とはあまり考えませんね・一人でそのニュースに接してるときは…。
    大勢でいる時にその話題になって誰かがこんな発言をすると思わず乗っちゃうってことは否定しません。
    「自分もすごいんだと錯覚」はしてないつもりですけどね!
     ただ、不の面はどうしても思ってしまうことがあります。
    特に海外で日本人が罪を犯したときなどについつい口をついて出てしまう「日本人として恥ずかしい!」というやつ。
    昔からある一種の「(最悪の)連帯責任」の精神がどこかに染み込んでしまってるのでしょうね!
    PS.ドイツサッカー、最近は女子も強いですよ!
    少なくともF1に比べたら「…」で書いてらっしゃる構図ばかりではないと思います。
    「措いておくとして。」とお書きの部分ですが「今は違う!」と思ったので書かせていただきました。
    失礼しました。

    2:31 PM 八木茂明
    • 八木茂明さん 
       
      大勢と一緒の時だと(一人の時とは違って)たしかにのせられてしまう部分はありますよね。
       
      >特に海外で日本人が罪を犯したときなどについつい口をついて出てしまう「日本人として恥ずかしい!」というやつ。
      昔からある一種の「(最悪の)連帯責任」の精神がどこかに染み込んでしまってるのでしょうね!
       
      ↑そうですね。そういう意味では連帯責任感のようなものが日本は強いのかもしれません。それがもしかしたら犯罪の抑止力になっているのかもしれないし、そうだとしたらポジティブな効果ではあるんですけどね^^★サンドラ★

      5:16 PM サンドラ・ヘフェリン
  • オリンピックとかで2カ国応援できるのは正直2倍楽しい。天邪鬼な部分もあるけど、祭りはノっといた方が楽しい事はよくある。まあ、どっちの国にも一歩置いてるから、ハーフに限らず多文化多言語な環境で育った人はどっちかっていうと個人主義になりがちなのかな?

    2:47 PM simon
    • simonさん
       
      二倍楽しいってのはありますね~。祭りは祭りとして楽しむという。
       
      >多文化多言語な環境で育った人はどっちかっていうと個人主義になりがちなのかな?
       
      ↑そうね。統計とったわけじゃないけど、そんな印象は受けます。★サンドラ★

      5:19 PM サンドラ・ヘフェリン
  • ノーベル賞が決まると、受賞者の出身国や民族、人種が必ず取り上げられるし、場合によっては「〇〇国出身だけど現在は〇〇国籍」とか詳しく報道されて、受賞者がどの国や民族、人種に関わりがあるかまで、説明がつきますよね。。。。それを誇りに思うのは悪いことじゃないかもしれない、でも、ノーベル賞って「人類」に貢献した人々の功績に与えられるんでしょう?〇〇人がスゴいとか、そういう話じゃないのになあ、、、と思うんです。

    3:03 PM N☆
    • N☆さん

       
      コメントありがとう~。
       
      >ノーベル賞って「人類」に貢献した人々の功績に与えられるんでしょう?〇〇人がスゴいとか、そういう話じゃないのになあ、、、と思うんです。
       
      ↑適確なご指摘ありがとう!ほんとうですよね。基本は「人類」に貢献した人。みんな忘れがちだけれど大事な点ですよね。★サンドラ★

      5:22 PM サンドラ・ヘフェリン
  • サンドラさんの文章の中で

    >基本は、「自分」だと思うのです。

    自分が誇りに思えるのは「自分が成し遂げた事」。

    恥じるのも「自分が起こした行為」。

    という文章がありましたが、一部は私も納得します。

    でも人は1人では生きていけず、必ず 国 やら 地域やら コミュニティに属しています。

    昔「村八分」というのがありましたが村社会でも葬式と病いの2分はコミュニティが助けるという意味らしいですね?

    コミュニティに住んでいても政治的に、社会的倫理的に間違いがあれば、個人からでもコミュニティに訴え正しい方向性へ向かえるようにすべきだと思います。

    ただコミュニティの文化やエンターティメントはその場所、地域に住んでいるからこそ共感できる側面もあると思います。

    昔しジャマイカの選手がボブスレーでオリンピックに出場して「寒さ」を知らない彼らがどう戦ったか映画化にもなっていました。

    そのような共同できる「笑い」や「辛さ」など、人が霞を食べて生きていくわけではない以上、必ず影響する地域での出来事というのもあるのだと思います。

    サンドラさんのベストセラー「「浪費が止まるドイツ節約生活の楽しみ」」「甘えを捨てるドイツ女性自立生活の楽しみ」「生きる力をつけるドイツ流子育てのすすめ」これらも 「ドイツ」という文化の中の良い部分に共感したサンドラさんの著作であるから、他文化の方が興味をもったりする場合もあるのではないでしょうか?

    「恥じるのも」「誇りも」その感情は生まれ持ったものではなく後の教育から生まれてくる心で、その心を育てた文化というのは必ず影響するものではないか?と思うのです。

    例えば戦時中の日本人の誇りは「天皇陛下のために戦うこと」で恥じるのは「戦争にいけない事」だったように。

    だからこそ、それをふまえ、戦争や不平等や差別や人を傷つけること、などなど過去から学び、現在の大人である我々が若い世代に「人は国や村などコミュニティに生きているけど、そのコミュニティが正しいか、正しくないか判断する心を養い、政治と歴史とエンターティメントと芸術とスポーツを一緒くたにしない」その判断基準は、相手、相手国を正しく理解しているか、尊重しているか、配慮しているか、応答できているか?そして社会的倫理に反していないか、思いやりと真心の気持ちで接していられるか?そのような事を伝えていくことではないかなあと私は思います。

    「他人への他国への中核における相互理解と配慮と尊重と応答」は社会主義で私とは主義が違いますがドイツの哲学者エーリッヒ・フロムの
    愛の定義です。(男女関係にも応用できます)

    社会的倫理というのは社会における人と人との関係を定める道徳上の規範です。

    もし誰かが社会的倫理やモラルや法律を守りたくない場合は反社会的人間になって反社会的運動をするという権利もあります。

    (私は原発が起動することが法律になるならその事に関しては反社会的になっても構わないと思っています)

    このように、人は自分で物事を決め、自分で誇りをもち、自分で成し遂げたことを経験として生きていくのは確かな事ではありますが、それはやはり個人が生きている環境の中でという大前提があると私は思います。

    そういう意味で私は日米混血で愛国心に薄いタイプですが、やはり良い時代に生まれて貧困も戦争もなかった世代として、日本に住むものとして、日本人の活躍が嬉しく思うときもありますし、アメリカ人としてアメリカ人の活躍を嬉しく思うときもあります。
    また血や環境の問題関係なく、同じ地球に同じときに生まれたものとして自分のすきな映画や小説・アート・スポーツなどなどは国に関係なく作品を誇り、偉大な事をなしとげた研究者がいたら人類として誇らしい気持ちになることはあります。
    ながくなってスイマセン

    6:42 PM J・O
    • J・Oさん
       
      コメントありがとうございます。
       
      >でも人は1人では生きていけず、必ず 国 やら 地域やら コミュニティに属しています。
       
      ↑っていうの、ほんとうそうですよね。私自身もこのことは感じていて、だからこそコラムにも
       
      >もちろん「自分で成し遂げた事」と言っても、その過程で、多くの人にお世話になったり、恵まれた子供時代を過ごしたり、「自分ひとりだけの力で何かを成し遂げた」ということではない部分も多くあることでしょう。
       
      と書かせていただきました。ただ所謂「コミュニティー」の結束というかコミュニティーへの依存が強すぎて、そしてそのコミュニティーを「国」という枠でしか図れないのだとしたら、少し残念だな、と思い、このコラムを書いた次第です。
       
      コミュニティーは否定しないけれど、「同じ国」というだけで、いろいろ(本当はそこにない)つながりを求めてしまう結果が「ノーベル化学賞を受賞した日本人を、同じ日本人として誇りに思う」という発想になるのだと思っています。まあ、こういう発想をするのもアリなのですが、グローバルとは遠い発想でもあるので、その点は自覚しておいて損はないんじゃないかと思います。
       
      J・Oさん、ご意見、書いてくださってありがとう~^^☆★サンドラ★

      10:41 AM サンドラ・ヘフェリン
  • ご無沙汰です。

    確かに私も、ドイツのサッカー、F1、ソーセージやビールに関して
    誇りに思ったことないですね〜。

    私には関係のないこととしか思っていません。

    そりゃ、サッカー強いのは凄いけど、でもそれって元々ドイツ人が
    サッカーしかほぼ(スポーツとしてメイン)やってないからだと思います。
    どこ見ても、何を聞いても、サッカー、サッカー。
    そればっかり。
    ドイツはサッカーしか頭に入ってないのか?と私は思う…
    他にもいろいろ楽しいスポーツが有るのに、なぜサッカーじゃないと
    いけないのか、正直私は理解出来ません。
    もう、サッカーには飽きてます。←もう嫌いなくらいです。
    (サッカーファンの方々には申し訳ないですが)

    なので、私もサンドラさんみたいに、ドイツの物や人など、
    同じ国だから誇りに思うことは1度もありませんです。

    9:04 PM Yoyo
    • Yoyoさん
       
      お久しぶりです^^コメント、うれしいです!そうですね、私もドイツで育ちましたが、サッカーはどことなくマッチョなニオイがするので、私はどちらかというと苦手ですね。Yoyoさんと同じです。
       
      ちなみに私は南ドイツのバイエルン州で育ちましたが、「サッカー&ビール&男の集団」の「同時3点セット」がどうも苦手で、もう酔っ払ったドイツ人男性が10人ぐらい集まって、大声でサッカーネタ、下ネタを話し、それに腹の底から出ているような南ドイツの男性特有の物凄いでかい音の笑い声が響くと、もう最悪です。しかも10人だから、声がでかいし、ものすごい威圧感があるし、まあサッカーネタとともに下ネタは言うしで最悪でございます(苦笑)「あー・・・・また、やってる、やってる」という感想しかもてません(笑)★サンドラ★

      10:19 AM サンドラ・ヘフェリン
  • 「同じ日本人として誇りに思う」発言は違和感がありますよね。
    他の「日本人として」のフレーズにもいつもひっかかります。

    温泉に入って「日本人に生まれてよかった~」、揚げたての天ぷら食べて「日本人でよかった~」…って、うちの夫、日本人ではないけれど、どっちも満喫してますよーって。
    どうしても言いたいなら「日本(の文化圏)で生活できて幸せ」って言った方がいいんじゃないのかなって思います。

    それから、

    >F1同様、「女が観客席から活躍する男を応援する構図」がどうも気に入らないのです。

    サンドラさんもなかなかの「上野千鶴子」さんですね(笑)
    私は、スポーツ観戦が大好きなので、その視点はあまりなかったのですが、なるほどな~と思いました。

    11:49 PM JM
    • JMさん
       
      コメントありがとうございます^^はい、フェミニストです(笑)
       
      JMさんが書かれていた
       
      >温泉に入って「日本人に生まれてよかった~」、揚げたての天ぷら食べて「日本人でよかった~」…って、うちの夫、日本人ではないけれど、どっちも満喫してますよーって。どうしても言いたいなら「日本(の文化圏)で生活できて幸せ」って言った方がいいんじゃないのかなって思います。
       
      ↑って、書いてくださってありがとうございます。JMさんのご主人のように日本人でなくても日本的なものを自分のことのように好きな人もいますよね^^よくわかります。このあたり、世間の感覚も、もっとグローバルになったほうがよいですよね。ここで言うグローバルとは外国語ができる、など語学の面だけではなく、「感情面」でグローバルになる、ということですね。日本的なものに感動をする時に、イチイチ「これは、ニッポン人にしか分からない事で外人さんには分からないんだ^^ワタシは日本人でよかった!」と感じてしまうようでは、「感情面」でグローバルとは物凄い遠いところにいるのではないかと思います。
       
      またお話しましょう~。★サンドラ★

      10:11 AM サンドラ・ヘフェリン
  • 「郷土愛」「チーム愛」「コミュニティ愛」っていうのかな?
    一種の、教育された思考パターンですね。

    「友人として誇りに思う」
    「家族として誇りに思う」
    「兄弟として誇りに思う」
    という感情が、世界のどの文化にもある気がする。。。けど無い人がいれば、それはそれでいいのかな、って思う(^^;)

    で、その逆として
    「同じヒトとして許せない!」
    「卑劣な奴!」
    ってのもある。。。

    まぁ、そういうのが当たり前と感じない人がいてもいいのかな、って今は思う(^^;)

    7:40 PM クロキっす
    • クロキっすさん
       
      コメントありがとうございます^^
       
      >「友人として誇りに思う」
      「家族として誇りに思う」
      「兄弟として誇りに思う」
      という感情が、世界のどの文化にもある気がする。。。けど無い人がいれば、それはそれでいいのかな、って思う(^^;)
       
      ↑そのとおりですね。そういう気持ちになるのは自然だし、でもそうでない人がいてもいい。ただ、たとえばノーベル化学賞のように、専門分野でノーベル賞を受賞した人に対して、自分はその研究に全くノータッチなのに、「同じ国の人」というだけの共通点で、「誇りに思う」って、ちょっと話が飛びすぎだなと思ったりしました。

       
      どうせなら、「●●人として誇りに思う」とか「●●人として嬉しい」とか「●●人として恥ずかしい」ではなく、クロキっすさんもちょっと書いていたみたいに「同じヒトとして、どうこう」と考えたほうが、まだ世界が平和になるんじゃないかな、と想像します。★サンドラ★

      9:59 AM サンドラ・ヘフェリン
  • もう一つ思いだしました。ボリウッドの有名女優、シルパ・シェティがイギリスのリアリティ番組「Big Brother」に出演した時のこと、出演者からインド人を差別する「インド人は遅れている」「インドは未開国」というような発言が飛び出し、シルパは号泣していました。私も経験したので彼女の気持ちはめちゃくちゃ分かります。しかし今回は相手が有名女優なため、イギリスのインド系議員やインドの議員までが抗議し、社会問題にまで発展し、世界中が知るところとなりました。
    これも根本にあるのは「イギリス人で白人ある私達は進んでいるけど、インド人は遅れているし、色黒だし、野蛮なのよね」という傲慢な考え方でしかないです。それからインド人はヨーロッパにルーツがあるコーカソイドです。アホ丸出しになるのが嫌なら、肌の色だけで判断しないで頂きたいですね(呆)。ついでに言うと、シルパ・シェティは色白です!

    11:18 PM Jannat
    • Jannatさん
       
      書いてくださって、ありがとうございます!インド人が嫌いだからと言って、インド人が出たら即罵声をあびせる、とか、ほんとう卑劣ですね。泣いた気持ち、よくわかります。その後、政治家も抗議して良かったです。
       
      話が前後しますが、私ももう一つ思い出しました(笑)Jannatさんがこのコラムの(一番最初に)くださったコメントに「ノーベル平和賞」の事を書かれていましたが、それを読んで一つ思ったことがあります。
       
      同じノーベル賞でも、「ノーベル化学賞」と「ノーベル平和賞」では、後者のほうには、同じ国の人として「誇り」のような感情を持つのはむしろ良いことだと思います。ノーベル平和賞は、ムハンマド・ユヌス氏のほかに、たとえばシーリーン・エバーディーさんやネルソン・マンデラさんなど、人権改善のために(時には大きな犠牲を払い)努力をした人が受賞するものなので、いわゆるその国の「世論を引っ張っていく」意味でも受賞に大きな影響があります。なので、たとえば一市民が「人権のために戦ってくれた●●(自分の国のノーベル平和賞受賞者)を誇りに思う」というのは全員にとって良いことだと感じます。
       
      でも、ノーベル化学賞に関しては、「研究の結果」ですから、本当に専門の分野であって、その分野に全くタッチしてこなかった人が、「(ノーベル化学賞受賞者と)同じ国の人」というだけで、「同じ●●人として誇りに思う」と感じたり、勝手に自分も賢くなった気になるのは、ちと滑稽なんじゃないのかい?なんて思うわけです。★サンドラ★

      9:50 AM サンドラ・ヘフェリン
  • 「Wir sind Papst!」というBILDの見出しを思い出してしまいました(笑)

    「同じ〜人として誇りに思う」や「同じ〜人として恥ずかしい」という言葉って不思議ですよね。私はサッカーだとドイツのナショナルチームを応援することが多いですが、勝ったら嬉しいけど「誇りに思う」ことはまずありません。(エジル選手のような「移民背景」がある選手にとってはそのような言葉は逆に苦痛になるのではないかとすら考えてしまいます。)

    誇りも恥もそう単純なものではないと思います。自分が作ったものではないけれど、「ドイツ製って良いよね」や「日本製って良いよね」と言われるとすごく嬉しくなるのも、たぶん私の中で「ドイツ人としての、そして日本人としての誇り」があるからだと思うのです。それをあたかも自分が発明したかのように主張するのは確かにおかしいと思いますが‥。
    恥もそうですね。同じ国籍でも結局は他人だから、例えばドイツ人観光客が半ズボンにサンダルに靴下という格好で旅行をしていても、私は「恥ずかしい(笑)」と思うけど「ドイツの恥だ!」と思うことも口にすることも絶対にありません。(服装なんて個人の自由だし。)
    しかし、教育や周りの影響で成り立っていくことに関してはコミュニティとして失敗した、という反省は必要だと思います。立場によって国際的なイメージが悪くなることもありますしね。

    一歩間違えると危ない愛国心になっていく過剰な誇りも恥も、私は非常によろしくないと思うので、「同じ〜人として〜に思う」や「〜人に生まれてよかった」という言い方は好きではありませんが(「ドイツ人に生まれてよかった!」はドイツで育つと死んでも言えない台詞だと思います)、自分の国について少し自慢したり反省したりすること自体は国際交流にとっては良いことなので、結局はどうバランスをとるのかが大事ですね。

    2:26 AM rika
    • rikaさん
       
      そうですね。けっきょくrikaさんが最後に書かれているように「バランス」が大事ですよね。
       
      ちなみに
       
      >「Wir sind Papst!」というBILDの見出しを思い出してしまいました(笑)
       
      ↑に笑いました!皆さんのために説明をすると、BILDというのはドイツの新聞で、日本でいえばスポーツ新聞のような大衆紙です。まあ文法などの面で言えば、日本のスポーツ新聞のほうがレベルが高いです。BILDはコンマが抜けていたり、文法が間違っていたり、とメチャクチャな事も多々ありますし、見出しが単純で大変面白い(←もちろん皮肉です)。で、rikaさんが書いていたBILDの見出し”Wir sind Papst!”は、日本語に訳すと「私達はローマ法王!」という意味です。要は、以前、ドイツ人のローマ法王が選ばれた際の見出しですね。ドイツ人がローマ法王になったからといって、ドイツ人全員がローマ法王であるワケないんですが、そこをおちょくって見出しにしちゃってる(笑)もしかしたら、この見出しをつけたBILD記者は、かなり皮肉屋さんなのかもしれない、なんて思いました。「大衆紙には、こういうタイトルつけときゃ、ウケルだろ。ひひひ^^」みたいな。

       
      それから、rikaさんが書いていた

       
      >「ドイツ人に生まれてよかった!」はドイツで育つと死んでも言えない台詞だと思います
       
      ↑はい、そのとおりですね。ドイツでこれを言ったら即「外国人を排除する右翼」の思想の持ち主だと周りに思われてしまいますね。★サンドラ★

      10:33 AM サンドラ・ヘフェリン
  • サンドラさん

    私ももちろんコミュニティを国とだけしか図れない考え方には反対です。

    なんかそれこそ悪い意味での村意識みたいなのになりそうですもんね?

    広い視野で柔軟に自分の族するコミュニティも属していないコミュニティにも理解と尊重と配慮ができる関係の世界になるのが理想的なのかな?

    そうすれば人類という規模で考えなくてはいけない問題、例えば核廃棄物処理の問題なども「自分の国が」「自分の国は」と逃げないで地球にいる人類として対応できるようになると思いますし。

    なにしろいつも長い文章スイマセン。

    5:56 PM J・O
    • J・Oさん

       
      ありがとうございます^^

       
      >広い視野で柔軟に自分の族するコミュニティも属していないコミュニティにも理解と尊重と配慮ができる関係の世界になるのが理想的なのかな?そうすれば人類という規模で考えなくてはいけない問題、例えば核廃棄物処理の問題なども「自分の国が」「自分の国は」と逃げないで地球にいる人類として対応できるようになると思いますし。

       
      ↑そうですね、それが理想です。自分の国だけ何々(例えば環境面で言えば「空気」)がよければよい、ではなく、隣国の人達のことも含めて、そして世界の人達のことを含めて「同じレベル」で考えられたら、どれほど世の中、平和になるか。書いてくださって、ありがとう☆★サンドラ★

      3:57 PM サンドラ・ヘフェリン
  • 初めてコメントさせていただきます。私はハーフではないので、日本人の一個人としての感想しか言えないのですが……ここでコメントされている皆さんの意見とは反してしまうのですが、そもそも「誇りに思う=あたかも自分が成功したように」という感覚が、ちょっと違うかな?と思ってしまいます。ドイツは個人主義の国と聞いたので、その辺りの感覚が日本と違うのかもしれません。もちろん、どちらが優れているというわけではなく、単純に文化の違いだと思います。日本語って言葉で言っていることがすべて真実とは限らないんですよね。日本語は高文脈文化で、ドイツ語は低文脈文化だと聞いたことがあります。つまり、高文脈文化の言語はお互いの文化的背景を基礎にできていて、すべてを言葉にしなくても通じる。低文脈文化の言語は、言語上にすべての情報が入っている。でも、これはどちらが優れているかというわけではなく、ただそういう文化なのだと思います。「誇りに~」と言っている人が本当に「自分の国」だけで物事を図っているのか?すみません、私も感覚的なものでうまく言えないのですが……答えはNOだと思います。うまく言えなくてすみません。ですが、これを読んでいて「ちょっと違うふうに解釈されてるな~」と、漠然とですが感じてしまうのです。自分でもはっきり言えないのですが……。ただ、一個人があたかも国を代表してしまうように捉えられてしまう、というのは実際問題あると思います。そもそも、日本だけでなく、国をステレオタイプでくくるのはよく聞くことですよね?エスニックジョークなど、まさにその典型だと思います。皆さん「基本は自分」とおっしゃいますが、本当にそうですか?国でくくることが、本当に、100%ないと言い切れますか?「○○人は~」という考えをもつことが、本当にないのでしょうか?わたしにはどうしてもそう思えません。もちろん、それが悪いことだとは思いません。ですが、この例だけを挙げて、「国単位で考えて、グローバルでない」というのは、ちょっと強引かな?と思えてしまいます。おそらく「誇り~」と発した人も、自分があげた功績じゃないことはよくわかっていると思います。が、そういう人たちの功績の積み重ねが、ひいては国のイメージを作っていくのは必然だと思います。だって、歴史的に偉大な発明をした人の名前を覚えていなくても、「たしか○○人だったな」ということは覚えているのって、どの国の人でもありますよね?そういう思考って結局は、国単位でくくられているのではないでしょうか。日本人は「人に見られているのを意識している文化」だから、そういう「国のイメージを左右しそうなこと」に対して、いいことなら嬉しいし、悪いことなら恥ずかしくなってしまう。そういう文化なのだと思います。ちなみに私は、「日本人はグローバル化に遅れてる!」っていう風潮があまり好きではありません。もちろん、国際化に向けて、日本人が取り入れたり、折り合いをつけたりする部分があるべきだとは思います。でも、それって他国もそうあるべきなのではないでしょうか?つまり、どの国も「あの国にはああいう文化がある、この国にはこういう文化がある」と理解し合って、そのうえで折り合いをつけていくべきなんじゃないかな、と思ってます。文化と文化を許しあってこそ、本当のグローバル化なのではないでしょうか。だからこの問題も、「同じ日本人として誇りに思い」つつ、同じ地球の人間としての意識を芽生えさせて、グローバル化をすべきなのではないでしょうか。誇りに思うのも恥ずかしいと思うのも、その行動から一個人だけでなく、国全体のイメージに関わってしまうと知っているからです。もちろん、その本人がすべての責任を取ることができれば、それが一番いいのかもしれません。でも、実際問題、そんな都合のいいようにはいきませんよね?例えば「日本人の男性がドイツで悪さをした」というニュースがあったとして、いったいどれだけの人が「日本人」ではなく「男性」としてそのニュースを見るでしょうか?それが積み重なれば「これだから日本人は」となるのではないでしょうか?やはり、自分が生活していく上で一番身近なコミュニティが「国」なので、そこをまったく意識しないというのは無理だと思います。夢物語に近いです。だって、「我々は○○人である前に地球の住民」であるのと同時に、同じくらい「地球の住民である前に○○人」なんです。「結局は個人」という考え方は、いい面もありますが、一歩間違えれば「個人なのだから好き勝手してもいい」ということになりかねませんよね。でも、コミュニティーで生活していく以上、「個人」だけには絶対になりえません。そこには「個人」の責任だけでなく、「国を背負う」責任も伴います。 長々となりましたが、「誇りに思う」も「恥ずかしい」も、それが国に及ぼすイメージという「責任」を伴った言葉なのだと思います。なので、単純に喜んだり、恥ずかしがったりしていると判断されてしまうのは、ちょっと悲しいですね。うまく考えがまとまらず、文章として読みにくかったかもしれません。長文失礼しました。

    9:35 AM mirai
    • miraiさん

       
      レスが遅れました。長く書いてくださったので、ひとつひとつ書いていこうと思います。

       
      >皆さん「基本は自分」とおっしゃいますが、本当にそうですか?

       
      ↑こちらですが、現在において本当にそうかは別として、「そういう方向にいくべき」つまり個人の努力がもっと評価されるべきという考え方なのだと思います。

       
      >「結局は個人」という考え方は、いい面もありますが、一歩間違えれば「個人なのだから好き勝手してもいい」ということになりかねませんよね。

       
      ↑これは、ぶっちゃけ、そう思いませんね。「個人」でも十分「責任」がありますよ。「国を背負っていない」、「個人として勝負」だからといって、全員、犯罪に走るわけではありませんね。miraiさんは本当に「日本という国」の事「だけ」を考えて盗みをしないのですか?たぶん違うと思います。おそらく「個人」に戻った時も盗みをしないと思いますよ。

       
      >でも、コミュニティーで生活していく以上、「個人」だけには絶対になりえません。そこには「個人」の責任だけでなく、「国を背負う」責任も伴います。

       
      ↑「国を背負う」は、気負い過ぎだと考えます。私たち、戦時中の兵隊さんではないんですよ(笑)

       
      >長々となりましたが、「誇りに思う」も「恥ずかしい」も、それが国に及ぼすイメージという「責任」を伴った言葉なのだと思います。

       
      ↑それも分かるのですが、自分個人がやった事ではないこと(それが良い事にしても悪い事にしても)について、「責任」という言葉を出すのは、危険だとも思います。たとえば、先日、殺人をした「池永チャールストーマス」容疑者がいますね。彼には、妹がいますが、たとえばその妹も「兄の起こした殺人」について「責任」をとるべきだと、miraiさんがお考えならば、それには同意しかねます。そして、同容疑者は日本とフィリピンのハーフですが、日本人が彼の犯行を恥ずかしく思う事はないし、当たり前ですが(ここを強調したい)日本にいるフィリピン人が彼の起こした犯罪を恥じたり謝る必要もないと考えます。理由は「自分が起こした犯罪ではないから」ですね。このあたりの事を曖昧にしてしまって、「でも同じ家族だから妹として・・・(責任がナンタラ)」とか「でも同じフィリピン人として・・・(責任がナンタラ)」とやってしまうと、あまり良い事がない気がするのですが・・・・いかがでしょうか。

       
      「誇り」を考えた時に、個人的には、行き過ぎた「同じ■■人として誇りに思う」という感じ方には、もう一つ弊害があると考えています。たとえば2年半前に日本で原発事故が起きましたね。多くの「日本人ではない人」つまり外国人も日本の政府や企業を批判しましたが、それを聞いた(一部の)愛国心の強い、または「日本人としての誇り」が非常に高い人達が、外から来る「政府や企業に対する(原発関連の)批判」をイコール「日本への批判」ととらえ、「日本人として悲しい」というような心境になり、それを口にする人が少なくなかったです。ですから、これが弊害です。誰がその国の何を批判しているのかを冷静に判断する必要がある(当時は、「原発」に関連して日本の政府や企業の対応を批判していました)のに、そこを「ひとくくり」にして「外人が日本を批判している。日本人として私は悲しい。」と言った人の多かったこと多かったこと。これって非常時には特に物凄く危険な事だと思うのですが、皆さんはどう思われますでしょうか。★サンドラ★

      9:42 AM サンドラ・ヘフェリン
  • 全く同感ですね。

    例えば、上野動物園のパンダが、人がたくさん来てくれることをパンダとして誇りに思う、というのであれば、分かる。しかし我々は違う国家に属していてもホモサピエンスという同じ動物なのです。
    これは国民国家と民族国家との違いにも関わる問題だと思いますが、私の感覚としては日本もドイツも民族国家的な色彩が強い。特に日本人が「日本人」という特別な生き物がいるように考えていることは否定のしようがないと思うのです。

    他方で国民国家にそれがないのか、と言えば、アメリカはむしろ様々な方法でそれを再構築しようとしているようにすら思える。
    その背景にあるのは、人間の、集団に帰属し、長を崇拝し、命を捧げ、誇りを分かち合うという動物としての本能ではないか、霊長類がオオカミやライオンを敵にまわして、尚も滅亡しなかった理由もそこにあるように私には思えるのです。しかし、社会が成熟すれば、それはファシズムや差別、延いては戦争にも基盤を与えることになる。

    ですから結局、サンドラさんが仰るように我々は個人に回帰すべきなのです。

    そういう視座は、ハーフという立場から得やすいように思うので、私はハーフであることを誇りに・・・あれ?

    もう一つ、社会的バックグラウンドの違いというネタもあったのですが、長くなってきたので今日はこの辺で。いつも興味深い話題提供、ありがとうございます!

    2:56 PM Guido
    • Guidoさん
       
      笑!ウイットのきいたコメント、ありがとうございます!
       
      >その背景にあるのは、人間の、集団に帰属し、長を崇拝し、命を捧げ、誇りを分かち合うという動物としての本能ではないか、霊長類がオオカミやライオンを敵にまわして、尚も滅亡しなかった理由もそこにあるように私には思えるのです。しかし、社会が成熟すれば、それはファシズムや差別、延いては戦争にも基盤を与えることになる。
       
      ↑まさに、私が言いたかったことです。書いてくださってありがとう。「同じ■■人として誇りに思う」という考え方を「ヨシ!」とする人には、「では■■人でない人が立派な事を成し遂げたら、アナタはどう感じるの?」って聞きたいです。
       
      そして、いつも思うのは、過剰な愛国心は、やはり他国の人達と上手くやっていくとを難しくしている、ということ。「愛国心の強いウガンダ人」と「愛国心の強い日本人」と「愛国心の強い韓国人」「愛国心の強い■■人」・・・そういう人達が集まって、どういう状況になるかは、今の日本の(一部の)メディア ⇔ 韓国の(一部の)メディアを見ればよくわかる。というか、日本の例を挙げれば、電車の中の雑誌の中吊り広告(子供の目にも触れるような場所、いわば公共の場!)に、「だから韓国は嫌われる」なんてタイトルを書いちゃうって、ちょっとヨーロッパのメディアの感覚だと信じられないです。明らかに悪意のあるタイトルなのに。
       
      ・・・色々あるけど、やっぱり目標は「その人(個人)」を見ること、評価することだと思うのです。貴重なご意見ありがとう!★サンドラ★

      4:08 PM サンドラ・ヘフェリン
  • 読んで、あぁそういう見方もあるんだな、と思いました。
    私はやはり日本人が何らかの分野で評価されると嬉しくなります。
    日本の車や電機メーカーの製品が海外にも流通していて、外国の人たちも私が日本人だからリップサービス的にそれを言ってくれて、そういう日本企業が正直誇らしかったりもしました。
    勿論、自分の功績ではないので、その点を自分と同一視するのは違うと思っていますし、サンドラさんの仰る事も分かります。

    >F1同様、「女が観客席から活躍する男を応援する構図」がどうも気に入らないのです。

    こういう事、実は前から気になっていたんですよ!個人的にハーフの方々(特に両方の文化を知ってる方)にお聞きしてみたいのは、”飲み会でのお酌をどう思われますか?”という事です。仕事絡みなら部下としてお酌もしますが、合コンは女性が尽くして男性に気に入られようとしているように見えて、そんなことなら私は別に良いって思ってしまいます。

    7:10 AM tanuki
    • tanukiさん
       
      コメントありがとうございます!
       
      >私はやはり日本人が何らかの分野で評価されると嬉しくなります。日本の車や電機メーカーの製品が海外にも流通していて、外国の人たちも私が日本人だからリップサービス的にそれを言ってくれて、そういう日本企業が正直誇らしかったりもしました。
       
      ↑その気持ちもわかります^^
       
      「お酌」も興味深いですね~。まあヨーロッパに関して言えば「女性が男性にお酌する」文化はないですから、日本のそれに慣れるのが大変な人は多いでしょうね。私自身は、こういう家事(?)にウトイところがありまして・・・「お酌してあげよう^^」なんて思ってても、タイミングを逃してしまったり、基本一つの事にしか集中できないダメな性格ですので、自分&相手の話に夢中になっているうちに(つまり、しゃべりに夢中になっているうちに)相手のグラスが空っぽなのに気付かなかったりするのですね^^;
       
      ただ、tanukiさんが「お酌」について感じている違和感もわかります。「お酌」も含めて、それが形だけであろうと、あまりに男性の前で過剰に演出したりへりくだったり、声が高くなったり・・・・などなどすると、「はぁ・・・」(タメイキ)と思いますね~。「話が飛びすぎ」とか「関係ない」って反論が来るかもしれませんが、こんなメンタリティーが「日本が男女平等において105位であること」と無関係ではない、と思いますね。女性が、こう補助役とかホステス役をやっている姿を(男性も女性も)「ステキ☆」と思っている国では、なかなか女性が対等になるのは難しいんじゃないかなあ、と思いますね。★サンドラ★

      4:21 PM サンドラ・ヘフェリン
  • Hallo,Freut mich.
    「国家」や「国民」なんて観念は200年にも満たないもの。人間が便宜的に作った「制度」。
    それなのに、「~人として誇りに思う」「~人に生まれてよかった」、さらには「~大学卒業生として嬉しい」なんて表現に日本でよく出会う。つまり、「国籍、所属」と個人は別個のものでしょう。

    日本の文化や技術が高くて評価されても、それは「日本人である私」が評価されたことではない。
    同様に、ある国が日本と友好的でなくても、「その国の国籍保有者である〇〇さん」を非難してはいけない。
    だって、個人と国家は別だから。

    「その人」を個別具体的に評価しなきゃ。「~人はいい」「~人はダメ」そんなバカな話がありますかいな。
    レッテル張り(ラベリング)して、思考停止に陥いるのはばからしい。

    他の日本人が優秀でも、(もちろんその人に対する賛辞は贈るけど)自分とは関係ないじゃない。

    集団にどっぷりつかって、ロボットみたいなのはもうやめよう。

    3:17 PM Niolai
    • Niolaiさん

       
      コメント下さってありがとうございます。同意します。とくに

       
      >ある国が日本と友好的でなくても、「その国の国籍保有者である〇〇さん」を非難してはいけない。だって、個人と国家は別だから。「その人」を個別具体的に評価しなきゃ。「~人はいい」「~人はダメ」そんなバカな話がありますかいな。

       
      ↑という部分。そうなんです、「■■人がノーベル化学賞をとった事を、同じ■■人として誇りに思う」という思考回路が身についてしまうと、じゃ、たとえば■■という国と敵対している国出身の人がノーベル賞をとったら、どうなるの?って話なんですよね。そこが怖い。お互いに敵対している国は世界に残念ながらたくさんあります。イスラエル、シリア、そして戦争レベルではないけれど、最近の日本と韓国。でも、「敵対する国」出身の人がノーベル化学賞を例えば受賞したら、それは「その人個人の頑張りや努力」を冷静にやっぱり認めるのが健全かと。実際、認める人が世の中多い、と信じたいです。

       
      ステキなコメントをありがとうございます。★サンドラ★

      3:49 PM サンドラ・ヘフェリン
  • 誇りに思う人、何も感じない人、人それぞれ感じ方は千差万別なので色々あって良いのではないでしょうか。例えば自分の家族の成功を誇りに思う人がいたりいなかったりというのと余り変わらないのでは。私は個人的にはフクシマの時に日本人がきちんと順番を守って水の配給を受ける様子がドイツで報道された時や、最近ではOECDの学力テストの結果等は素直に嬉しかったです。日本に住んでいた時には当たり前に思っていた事でも海外では凄い事(褒めるべきこと)だったりという事があるので(勿論逆もある!)、そんな時はやはり自分が日本の創造物の一部である事を誇りに思いますし、その部分を失わないようにしようと思ったりします。

    10:59 PM エンテ
  • ドイツ在住の日本人です。
    結局は程度の問題、バランスの問題なのかなと思いますが、「自分の国の良いことに便乗をして自分もスゴイんだと錯覚」するという意味は、たいていの日本人が「日本人として〇〇を誇りに思う」という際、含まれていないと思います。
    個人的には、(説明するとすれば)「自分が、〇〇というすばらしいものを生み出したこの社会もしくは文化の一部でいられることをお天道様に感謝する」という意味かと思っています。もちろん、それが行き過ぎると危ないですけどね・・笑
    日本語ができるドイツ人ともちょうど同じ話題について話していて、「誇り」の言外の意味・ニュアンスについて齟齬があるなと感じていたので、ここでもコメントさせていただきました。

    7:55 AM peko
  • (追記)
    ちなみに個人的には、ノーベル化学賞をとった日本人に対して、「日本人として誇りに思う」とは言わないと思います。ただ、その受賞者が例えば「これも皆、支えてくれた周り(家族のみならず研究者や大学等)のおかげです」等発言し、それがとりあげられれば「彼、彼女は立派だ。日本人として誇りに思う」かもしれません。
    要は、ノーベル賞を受賞しても「個」でなく「和」、謙虚さを忘れない姿に、自分も属するところの日本的な美徳を感じるということです。
    長くなりました。すみません!

    8:09 AM peko
  • 随分前にアップされたコラムのようですが、たまたま読ませて頂き非常に興味深い内容でしたので、今更ですがコメントさせて頂きます。ドイツ在住の純日本人です。

    まずこの議論には2つの視点からの感想を持ちました。

    常々思っていた事ですが、この「誇りに思う」という言葉、訳す時などに、日本語の視点から言っていつも何かちょっと違うんだよなと思いながら、でも他に適当な言葉も見当たらないので私も使っていますが、このコラムを読んでその時と似たような感覚を持ちました。上にも書いていらっしゃる方もいますが、この「誇り」という言葉の中にある(日本的な?)意味には、何も自分を特別に思ったり自分の長所を誇示する事だけではないと思います。「誇り」があるという事はそこが自信になり、それがアイデンティティの確立につながる事だと思いますが、それが他者の長所を尊敬しないという事や自分以外の他者を蔑む事にはつながらないと思いますし。むしろ「誇り」を持った人ほど他者の良い所を素直に認めてそれを尊敬できる人であり、そのような人こそが真の「誇り」ある人ではないかと思います。(「同じ○○人として誇りに思う」と言っている人全てがそうかはわかりませんが) そういう意味ではこの「誇り」という言葉を訳す時にはその真意が伝わるか、いつも戸惑います。

    次にこれは文化的背景の違いも多いにあると思います。上にもどなたかが書かれていましたが、人は一人では生きていけませんし、自分自身の行いはやはり自分の帰属する集団、所属する組織などにも適用されると思います。適用というと適切な言葉ではないかもしれませんが、要は自分自身だけで行った事だとしても、その行いは良い事であれ悪い事であれ、その所属する集団や組織に波及するという事です。特に日本においては文化的背景からして、この集団や組織というものを非常に重要視し、連帯責任という概念等もありますし、自分の行いは集団や組織に影響を及ぼすと考える人が多い傾向にあると思います。○○社の一員として誇りある言動をとか、競技など○○チームの一員として誇りを持って正々堂々と戦うとか、震災時の日本人の行動に日本人として誇りに思うとか、もっと言えば、家族・親戚に迷惑がかかるから悪い事はできないとか、そのように考える人は多いと思いますし、実際私もそのような感覚で育ちました。ですので、自分のアイデンティティにつながる家族や組織・延いては国単位であってもそこに関わる成功や功績を誇りに思うというような感情を抱くのは、日本のこのような環境にいる場合は自然のような気がします。ですが、それが即ち他者への尊敬がないという事にはつながらないと思います。また、サンドラさんがおっしゃるように、個人の功績(または犯罪)に対し国や組織に直接責任がある訳ではないのは正にその通りだと思います。日本では場合によってはその集団や組織の責任を問われる事もありますが、その辺りは我々も意識して別々に考えなければいけないと思いますが、それと誇りに思う事は違うように思います。

    ひとつ面白いと思ったのは、今回のコラムでサンドラさんがおっしゃっている事は、私の個人的な経験から言うと、極めてドイツ的だなと思った事です。ドイツ人の思考回路を少し垣間見れたような気がして納得しました。例えば明らかに先方でミスがあった場合、こちらから問合せをして多少クレームめいた事を言ったとしても、担当者でなければまず先方から謝罪の言葉はなかなか聞けません。理由は「私がやった訳ではないから」 日本的に言うと、まずは「組織」として何が何でも(というのがまた日本的で是非はありますが)迷惑をかけている事実に対してお詫びをし、また更にミスが明らかであれば、誰がやったのかというのは別にしても「組織」としてお詫びというパターンが多いと思いますが、それは非常に日本的であってドイツではあまりない対応ですよね。純日本人の私としては始めこそ驚きましたが、今ではある意味論理的であるとすら思い、ここではこのやり方でこなしています。これはどちらが良いか悪いかという事ではなく、文化的背景を含めた考え方の違いとして受け止めています。

    人がどういう事に対して自分のアイデンティティを感じるか、どういう時に誇りを持つかというのは本当に人それぞれで、その育ってきた環境や背景によっても大きく違うと思いますし、他者に対してこういうアイデンティティを持てと強制できるものではないと思います。長々と上手くまとめられなくてすみません。サンドラさんのアイデンティティから成るこのような情報発信は、色々な角度のものの見方を気づかせてくれますし、非常に有意義で多くの人が賛同したり考えさせられたりする、素晴らしい機会だと思います。これからも応援していますし、ご活躍を楽しみにしています!

    1:17 AM Cacao

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です